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日大アメフト部の悪質タックル問題

学生は一人で会見に臨んだ

日大アメリカンフットボールの悪質タックルの問題で、当該の日大選手がたった一人で会見に臨みました。大学の関係者のサポートもなく、個人として行った謝罪と事実の公表の異例ずくめの会見。20歳になったばかりの学生という立場で、顔や名前を公表しての会見を行うという決意に至った背景には、大学スポーツの場で起こったことにもかかわらず、まるで他人事のように学生個人の責任にすり替えようとしていると取られても仕方がない日大側の態度にあると言えるでしょう。

広報部のコメントに唖然

しかも、会見後の日大広報部のコメントに驚かされました。

会見全体において、監督が違反プレーを指示したという発言はありませんでした。

(当該選手は)監督と話す機会がほとんどない状況でありました。

とわざわざ断り、コーチからの「1プレー目で(相手の)QBをつぶせ」という発言は「最初のプレーから思い切って当たれ」ということだと意訳して、あくまでも選手ではなく監督を守ろうとしているように見えるコメント。なぜ学生が日大から離れて個人で会見と謝罪を行わざるを得なかったのか、その理由を皮肉にも自ら世間に露呈するような内容となっていました。

驚愕の監督とコーチの会見

翌日急遽行われた、監督とコーチの会見には更に驚かされます。終始言い訳のような発言を繰り返す彼らの質疑応答は、日大広報部の職員による司会進行の驚きのまずさ(謝罪会見にそぐわない高圧的な司会進行に、初めはまさか日大の関係者だとは思いませんでした)も相乗効果となり、火に油を注ぐ結果となりました。

だんだん増えていく非常に濃い日大側の登場人物を見るにつけ、ここは本当に大勢の学生を預かる教育機関でこの人たちは教育者なのか?と疑いたくなります。前日の学生による過不足なく理路整然とした説明と潔い謝罪と反省からなる会見とのあまりの差に、開いた口が塞がらない…という人も多かったのではないでしょうか。

学生の気持ちを考えると悲しくなる

この日大の会見を見ていたであろう、当該学生やアメフト部の部員たちはどんなやるせない思いをしただろうかと想像すると、心が痛みます。

いざとなるとトカゲの尻尾切りのように、末端の人だけが責任と取らされ、その人たちがそうせざると得ない環境を作った権力を持つ人間は逃げ延びる…。昨今日本の社会のあちこちで見られる既視感ある状況が、こんな教育の現場で学生までも追い詰めている…。

大人として、日本人として、これじゃいけないという思いが、この問題がこれだけ大きな社会問題となった背景にあるのではないかと思います。

当該学生は、たとえ監督やコーチの指示があったとしてもそれをやってしまったのは自分の弱さだったという旨の発言をし、潔く謝罪をしています。この問題を乗り越えた後、これからの彼の人生が、明るく拓けて行くとことを願ってやみません。

道徳教材「星野君の二塁打」

この日大の問題を見て、最近NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられ話題となった小学校の道徳の教科書にある教材「星野君の二塁打」を思い出した人もいたのではないでしょうか。私もこの教材の違和感が強く印象に残っていたため、日大の一連の騒動を見てこの話を関連づけて考えずにいられませんでした。

この話のあらすじは

星野くんは少年野球チームに所属する選手です。バッターボックスに立った星野くんに監督から出された指示はバント。でも彼は打てそうな気がして、反射的に思いっきり振ったバットは鮮やかな二塁打に。チームを勝利へ導き、星野君のチームは大会出場という結果になります。

ところがその翌日、監督の別府さんはチームのみんなを呼んでおもむろに話し始めます。本当なら心からおめでとうと言いたいところだが、彼にはそれができないとのこと。なぜなら「昨日ぼくはどうしても納得できない経験をしたんだ。」と星野君を含めたみんなの前で話します。監督の言い分はこうです。

「はっきり言おう。僕は昨日の星野くんの二塁打が納得できないんだ。バントで岩田くんを二塁へ送る。これがあの時チームで決めた作戦だった。星野くんは不服らしかったが、とにかくそれを承知した。いったん承知しておきながら、勝手に打って出た。小さく言えば、僕との約束を破り、大きく言えば、チームの輪を乱したことになるんだ」

しかし、星野くんの二塁打がチームを救った、というチームメイトの助け船が入りますが、彼はこう続けます。

「いや、いくら結果がよかったからと行って、約束を破ったことに変わりはないんだ。

(中略)

ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」

そして星野くんは監督により、今度の大会の出場を禁じられてしまうのでした。

そして本文の後「学習の道すじ」として

星野くんのとった行動を通して、きまりを守り、義務を果たすことの大切さについて考える。

と四角で囲まれて記載されています。

日大の問題と星野君の二塁打

管理する側の都合と子どものための教育は違う

日大の危険タックル騒動を見て、この「星野君の二塁打」を読むと、
「いやいや子どもたちにこのお話が正義だと刷り込んでいいの?」
という焦りと違和感でいっぱいになります。この学習の道すじ通りに、決まりを守り義務を果たすことの大切さについて考え、監督のに言われたことを守ることが正しい、との結論に帰着するべく授業が展開するのだとしたら、自分の子どもにはそんな授業を受けて欲しくありません。

なぜなら、このお話はあまりに管理する側にとって都合のいい話だと感じるからです。

教育とは本来子どもが持っている力や可能性を引き出すべきものだと思うのですが、小学校や中学校、場合によっては幼稚園などの幼児教育の場でも「管理しやすい人間を作る」ことが教育の目的になっているのでは…と思わせるようなことがありませんか?

監督や先生の決めたことは絶対のルールであり、それを守る子がいい子、守れなければペナルティを与えるというやり方。学校の場でごく普通に見られるこのやり方ですが、上から管理されることに耐性がつくと言う意味では効果的ですが、子どもの生きる力を引き出すという意味ではどうなんでしょうか。

プレッシャーを与えることは教育なのか

星野君は、バントをせず自分の判断で二塁打を打ったをペナルティとして、試合に出ることを禁じられてしまいました。日大の選手も、練習や試合に出さないというペナルティでプレッシャーを与えられ追い詰められて行ったようです。スポーツ選手にとって練習や試合の機会を奪われるということは、一番堪えるやり方なのでしょう。

日大アメフト部の監督やコーチは、プレッシャーを与えいじめることが指導であり、本人をよくする術だと思っていたような発言を繰り返しています。確かに時と場合によっては、上意下達、いわゆるトップダウンを機能させることが有効なケースもあるかもしれません。

しかし残念ながら、指導者の言うことがいつも正しい訳ではないことを私たちは知っています。そしてトップの言うことに従ったり忖度することで生じた責任は、結局は自分が取らなければいけないということも、昨今の様々な社会問題で見せつけられて来ました。

上の指示に従っただけのはずがいざ問題が生じると誰も守ってはくれない、残念ながらそんなケースはいくらでもあります。自分を犠牲にしてトップの指示に従い、理不尽を感じてもでも上を守って、幸せになれる人は果たしているんでしょうか。

自分の頭で考えることが必要

これからの子どもたちの幸せを考えるなら、思考停止を促すような教育ではなく、最後は自分の頭で考えることが大切というメッセージが必要なのではないかと考えます。もし「星野君の二塁打」の学習の道すじをなぞるだけで、監督の言い分を鵜呑みにするような道徳の授業を自分の子が受けると考えると、とても嫌ですね。

この「星野君の二塁打」を授業で扱うなら、ぜひ今回の日大の騒動も現実の題材として並べて欲しいです。また、災害の時などに思考停止して誰かの指示を待つことのリスクなども合わせて討論し、真逆の意見を出し合いながら考えることができるなら、有意義な授業になる可能性はあります。

クローズアップ現代で紹介されていたベテランの先生は、生徒から色々な意見を出すことに成功していたようなので、教師の力量やクラスのメンバーによっては使える教材なのかもしれません。でもそれができる現場の教師がどれくらいいるかは疑問です。

最後に

「彼はもっとできる」と言う一見きれいな教育者のようなことを言いながら、選手を出場や練習禁止などのペナルティーでコントロールし追い詰め、問題が起きると選手に責任を転嫁する日大の監督やコーチは教育者や指導者を名乗る資格はないと思いますし、学生を守らない日大のこれまでの姿勢はとても教育機関とは思えません。

救いは当該選手やその保護者、代理人が日大と離れて自分たちで考え行った会見が、素晴らしかったことです。厳しい時期がしばらくは続くかもしれませんが、彼に明るい未来が待っていることを祈ります。